母 ~3~
2009.6.27
毎日、病室にだまって入って来て、荷物から弁当を取り出し、談話室に行って食事。
戻ってきてからも、私とは目も合わさずに本を読み、何も言わずに、帰る母。
私も、余計なことをごちゃごちゃと言われ、鬱陶しい言葉で話しかけられるより、こうして私をまるで空気のように扱ってもらったほうが、心地良く、楽です。
わかっています。これが、彼女が今取り繕っている「体裁」なのだということを。
普段つきあいのまったく無いご近所に、「娘のことをどれだけ心配しているか」、「祖母の介護をしながら、なおかつ東京の娘の面倒も見るだなんて、どんなに大変か」、「自分がどれだけ頑張っているか」、それらをアピールする、絶好のチャンスなのです。
マルチ商法に手を染め、友達すべてを失い、さらに私の卒業アルバムを勝手に持ち出し、同級生の親全員の家に押しかけては商品を売りつけていた、彼女。
おかげで、私は実家に戻っても白い目で見られ、恥ずかしくて友達には会えなくなりました。
気がつけば親類からも、周囲からも完全に孤立し、もちろん商売も失敗し、多額の借金だけが残りました。
今は、叔母と交代で祖母の介護をしながら、犬を5匹も飼って、孤独を紛らす毎日です。
前回の入院のときに東京に来た際に、ご近所に配る土産について、こんなことを言っていました。
「隣の○○さん、3人家族だから3個だけひよこ持って行ったんだけど、孫連れて上の娘夫婦来ててさ、4つ余計に配らなきゃいけなくなったよ…失敗した。今度から土日には行かないことにする」
…土産の菓子をバラで配る人だなんて、彼女以外知りません。
お隣さんは以前それでも、「昔からおつきあいがあるから」と、彼女の売りつける15万もする高い鍋を購入してくれたこともあったのです。
そんなご恩などはまったく記憶にないのでしょう。
一時的にでも、「誰か周りの人に認めてもらいたい」という彼女が、必死に東京を往復するのは、ほかでもない彼女自身のためでしかないことは、手に取るようにわかります。
33年にも渡って、一度も私とまともに接してきたことのない、戸籍上の母。
心底うんざりします。
彼女に利用されるのはいつもこんな時ばかりです。
曲がりなりにも看護師として働き続けていた彼女ですが、寝坊して遅刻したりすると、必ず私のせいにされました。
同居を始めてからのことですが、確かに私は学校に行く準備をしているというのに、「娘が熱を出して寝込んでいまして、少し遅れます」と、電話口で話す彼女を、幾度となく見ました。
「女手ひとつで育てているのだから」と、周りに必死に言い訳する姿が、憎くてたまりませんでした。
毎朝早く起きて私のために弁当を作り、朝食の準備をし、夕方には晩御飯を共にしてくれているのは、祖母でした。
それほど多くもない年金から、お小遣いをそっと渡してくれるのも、長かった私の髪を綺麗に編んでくれるのも、祖母でした。
少し曲がり始めた腰を、辛そうにしながらも家の隅々まで綺麗に掃除して、チラシを見ながら毎日の献立を考え、買い物に行くのにも、車はおろか自転車も乗れない祖母は、いつもしんどそうでした。
大雪の日には、私の制服の裾が汚れないようにと、庭先の雪かきを済ませてくれていたのも、やっぱり祖母でした。
「最後の娘だと思って育ててるから」と、何でも相談に乗ってくれて、時には厳しく叱ってくれるのも、当然祖母でした。
…それでも私は小学生のとき、「母の日」に、ためていた小遣いで祖母と同じようにカーネーションの小さな花束を買って彼女にプレゼントしたことがありました。
そのときに、花を受け取ろうともせずに彼女が言った言葉は、
「これ買ったお金、いつ誰からもらったの?」
でした。
今にして思えば、あれが、初めての家出でした。
まだ、「母から愛されたい」という気持ちが、無意識ながら私の中にあったのだと思います。
子供ですから、当然といえば当然の、本能的な感情なのかもしれません。
だからこそ、愛されていることを確かめたくて、わざわざ心配させるようなことをしてみたりしたのだろうと思います。
心理学とか、よく知りませんが、私は少なくとも今そう思います。
でも、そんなことをしても無駄でした。
そうした「ショック」を受けるたびに家出を繰り返しても、彼女が私を心配することなど全く無いのだということを悟るまで、さほど時間は掛かりませんでした。
私の場合、怒りや寂しさ、悲しみ、救いを求める気持ち、憎しみは、外に向くことなく内へ内へと向かっていきました。
その結果、初めて自分の手首を切ったのが、小学6年の7月のことでした。
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毎日、病室にだまって入って来て、荷物から弁当を取り出し、談話室に行って食事。
戻ってきてからも、私とは目も合わさずに本を読み、何も言わずに、帰る母。
私も、余計なことをごちゃごちゃと言われ、鬱陶しい言葉で話しかけられるより、こうして私をまるで空気のように扱ってもらったほうが、心地良く、楽です。
わかっています。これが、彼女が今取り繕っている「体裁」なのだということを。
普段つきあいのまったく無いご近所に、「娘のことをどれだけ心配しているか」、「祖母の介護をしながら、なおかつ東京の娘の面倒も見るだなんて、どんなに大変か」、「自分がどれだけ頑張っているか」、それらをアピールする、絶好のチャンスなのです。
マルチ商法に手を染め、友達すべてを失い、さらに私の卒業アルバムを勝手に持ち出し、同級生の親全員の家に押しかけては商品を売りつけていた、彼女。
おかげで、私は実家に戻っても白い目で見られ、恥ずかしくて友達には会えなくなりました。
気がつけば親類からも、周囲からも完全に孤立し、もちろん商売も失敗し、多額の借金だけが残りました。
今は、叔母と交代で祖母の介護をしながら、犬を5匹も飼って、孤独を紛らす毎日です。
前回の入院のときに東京に来た際に、ご近所に配る土産について、こんなことを言っていました。
「隣の○○さん、3人家族だから3個だけひよこ持って行ったんだけど、孫連れて上の娘夫婦来ててさ、4つ余計に配らなきゃいけなくなったよ…失敗した。今度から土日には行かないことにする」
…土産の菓子をバラで配る人だなんて、彼女以外知りません。
お隣さんは以前それでも、「昔からおつきあいがあるから」と、彼女の売りつける15万もする高い鍋を購入してくれたこともあったのです。
そんなご恩などはまったく記憶にないのでしょう。
一時的にでも、「誰か周りの人に認めてもらいたい」という彼女が、必死に東京を往復するのは、ほかでもない彼女自身のためでしかないことは、手に取るようにわかります。
33年にも渡って、一度も私とまともに接してきたことのない、戸籍上の母。
心底うんざりします。
彼女に利用されるのはいつもこんな時ばかりです。
曲がりなりにも看護師として働き続けていた彼女ですが、寝坊して遅刻したりすると、必ず私のせいにされました。
同居を始めてからのことですが、確かに私は学校に行く準備をしているというのに、「娘が熱を出して寝込んでいまして、少し遅れます」と、電話口で話す彼女を、幾度となく見ました。
「女手ひとつで育てているのだから」と、周りに必死に言い訳する姿が、憎くてたまりませんでした。
毎朝早く起きて私のために弁当を作り、朝食の準備をし、夕方には晩御飯を共にしてくれているのは、祖母でした。
それほど多くもない年金から、お小遣いをそっと渡してくれるのも、長かった私の髪を綺麗に編んでくれるのも、祖母でした。
少し曲がり始めた腰を、辛そうにしながらも家の隅々まで綺麗に掃除して、チラシを見ながら毎日の献立を考え、買い物に行くのにも、車はおろか自転車も乗れない祖母は、いつもしんどそうでした。
大雪の日には、私の制服の裾が汚れないようにと、庭先の雪かきを済ませてくれていたのも、やっぱり祖母でした。
「最後の娘だと思って育ててるから」と、何でも相談に乗ってくれて、時には厳しく叱ってくれるのも、当然祖母でした。
…それでも私は小学生のとき、「母の日」に、ためていた小遣いで祖母と同じようにカーネーションの小さな花束を買って彼女にプレゼントしたことがありました。
そのときに、花を受け取ろうともせずに彼女が言った言葉は、
「これ買ったお金、いつ誰からもらったの?」
でした。
今にして思えば、あれが、初めての家出でした。
まだ、「母から愛されたい」という気持ちが、無意識ながら私の中にあったのだと思います。
子供ですから、当然といえば当然の、本能的な感情なのかもしれません。
だからこそ、愛されていることを確かめたくて、わざわざ心配させるようなことをしてみたりしたのだろうと思います。
心理学とか、よく知りませんが、私は少なくとも今そう思います。
でも、そんなことをしても無駄でした。
そうした「ショック」を受けるたびに家出を繰り返しても、彼女が私を心配することなど全く無いのだということを悟るまで、さほど時間は掛かりませんでした。
私の場合、怒りや寂しさ、悲しみ、救いを求める気持ち、憎しみは、外に向くことなく内へ内へと向かっていきました。
その結果、初めて自分の手首を切ったのが、小学6年の7月のことでした。
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