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今を生きる

2009.6.26

指先の、酸素濃度測定用の器具が外されました。
ずっと、人差し指を、力の弱い大きな洗濯ばさみではさまれていたような感覚でした。
外された指は、少しいびつに、器具の形状にところどころが凹んでいました。

かなりの吐血でしたから、一般的な量の輸血してもまだまだ血液量が足りていない状態なので、当然、血液の「全身に酸素を送る働き」が弱まっているのです。
そのため、指先の酸素濃度を計測し続ける必要があったのですが、もう「酸素吸入をしなくても、酸素濃度は安定している、今後も安定したままであろう」といえる数値になったのでしょう。

「今後、吐血をしても輸血をすることはない」と、主治医の先生から宣言されていますから、なんとしても私は、他人の血液を頼ることなく、私自分の血液を使い、私自身の力で呼吸をし、私自身の足で歩かなければなりません。
輸血を大量に受けることは、決して良いことばかりではないのは私も知っています。
先生なりの、苦渋の判断であることも、わかります。

私自身、自分の手に透けて見えるこの血管に流れる血液が、他人の血ばかりになってしまうだなんて怖いです。いやです。
心でさえも拒否反応を示すのですから、身体はもっと素直に拒否反応を起こすのです。
特に、全身の解毒作用を担う、肝臓への負担は計り知れないものがあります。

かつて昭和天皇が膵臓癌を患われたとき、手術で大量の輸血をされていたのは、決して最善の策ではなかったのでないかと、当時でも疑問視されていたことです。

たとえば骨髄にガンが出来てしまった場合、いわゆる白血病の状態に陥った患者さん達は、型の合うドナーの骨髄液が見つかるまで、途方も無く低い確率の救いを待ち続けなければなりません。
それまでの間、放射線治療や、抗がん剤治療を受け続け、なお絶望の淵を常に歩かなければなりません。

骨髄液とはいっても、それは血液を造り出すものですから、いわゆる、血液の泉と言えるかもしれません。たった少し、型の違う骨髄液を移植することでさえ、私たちの身体は許してくれません。
同じ血液型の、400ccの血液そのものであったとしても、当然、いくらかの拒否反応は出て当たり前といえるでしょう。
ましてや一度人間の身体から外に出て、滅菌処理など施されて、使用期限付きでパック詰めされた、極めて不自然な液体なのです。たとえ自己血輸血であったとしても、もはやそれは自分のものであってそうではない、と私は思います。

私は決して、あるカルト宗教の信者ではありませんが、できることなら息子にも、私にも、輸血は最大限までしない・させない考えです。
ですがもちろん、今回の私のように確実な死が迫っている場合には、わざわざ輸血を拒否することなどはしません。
献血は、これまでに何度か、記念品をもらう程度までしてきた経験があります。
友達と渋谷で待ち合わせるとき、新宿で待ち合わせるとき、必ず早めに行って、リラックスしたあの空間で「ちょっと良いことしたな」と思える時間が、好きでした。
ただ、もともと貧血になりやすい体質ですから、普段からレバーや貝類を多めに摂っていましたが、比重が足りずに断られることも、しばしばでした。
体調よく献血ができたときには、成分献血を選んでいました。赤血球は戻って来るので、貧血になりにくく助かりました。

人差し指が使えず、打ちづらかったキーボードも、楽に打てます。

少しずつ、「死を目前にした人間」から、元気になっているのを感じます。

先生が「もう助かりません」と言ったから、だから、なんだというのでしょう。
私は今こうして生きているではありませんか。

人間は誰しも、必ず死にます。
そうであるなら、私は、ほかの誰とも変わらない立場でしょう。
いつしか死ぬ。そうわかっていて、でも今生きているから、今を精一杯生きるのです。

私は今生きています。
生きていたいと思っています。
確かに、先は短いのかもしれません。
でも、ちゃんと生きようと思います。





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